☆日曜日 午前10時30分 聖日礼拝 週の始めの朝、私たちの造り主なる神…続きを見る
11月に入り、例年に比べて暖かな先月を引き込んでこの月の気候が続いていましたが、そろそろ山間部からは初雪の知らせも耳にすることでしょう。
お変わりありませんか、この月もこころのリビングへようこそ!
この季節になると、店頭に来年のダイアリーが並んだり、今年の○○大賞といった、明くる年への備えと共に、何かと一年を振り返る文言を目にするようになります。
一昨年から、盛岡の教会とも関わるようになり、月毎に秋田との往復が始まりましたが、どちらも50年、60年という月日を過ごしてきた教会で、歴代の牧師たちや、これまでに出入りのあった構成メンバーにも、それぞれの物語があり、そうした積み重ねと共に教会の歩みも進んできました。
先日秋田では、一件の葬儀があり、盛岡ではこの2月に天に帰られた方の納骨の時を持ちました。こうした機会には、どうしても「いのち」や「人生」といったことに思いを向けざるを得ません。
聖書の中には幾度となく「永遠のいのち」という言葉が登場しますが、これは歴史上、時の権力者たちが求めた「不老長寿」とは、その意味を異にしていて、有限な肉体と寿命を持つ人が、永遠の神との愛と信頼に満ちた関係を持つことを指しており、それはこの地上を離れた天国だけに存在するのではなく、私たちが日常的に経験する人生の山坂の只中にもあり、そこで時に味わう泣き笑いを神と物語り、この方と共に生きることを聖書は「永遠のいのち」と呼んでいます。
それは私たちの生涯の「まさかの時」まで途切れることのないもので、イギリス国教会の一聖職者として、英国を導いたメソジスト運動の指導者であったジョン・ウェスレーは、その死の床において「神が共におられる、これが最も良いこと」との言葉を残しています。
季節が晩秋から冬へと向かうこの時期、日も短くなり、何かと物寂しさを感じる時ですが、この世界を貫くすべてに「神が共におられる」と頷くことができたなら、刈入れの終わった一面の田園を前に、ススキ野原をひとり歩くような中にも、温かな思いを内に抱いて生きることが可能となります。
「私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので 私は揺るがされることがありません~あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり 楽しみがあなたの右にとこしえにあります。」 聖書
集会の様子は「igm秋田教会」で検索するとご覧になれます。
教会の名前となっている「インマヌエル」とは「神は私たちと共におられる」という意味の、聖書に記されていることばです。
それは、私たちが順境の時はもとより、困難、失望、孤独の中にあってさえ、神が共におられ、信ずる者の味方となってくださるということです。
教会で歌われる讃美歌の中に次のようなものがあります
「人生の海の嵐にもまれきしこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し」
教会は港のように人生航海の途上にある人たちが立ち寄り、神さまの愛と安らぎの中で休み、くつろぎ、養われ、整えられてゆく場です。
どうぞ、どなたも、ありのままの素の自分になってくつろげる、こころのリビングへおいで下さい。
なお、メールアドレスは以下の通りです。
igm.akita@softbank.ne.jp